三人の映画批評家…何度目か洋泉社の映画本のハナシ

@TomoMachi
面識はありませんが素晴らしい書評ありがとうございます! RT @sasakiatsushi: 『トラウマ映画館』町山智浩、やっと読了した。素晴らしい本だった。自らのセンスの良さや頭の良さを誇示するか、不格好な信仰告白みたいなのが多い映画書の中で、際立った魅力と倫理を感じた。
http://twitter.com/#!/TomoMachi/status/53273803047972864

今まですれ違ってた同世代の二人の映画批評家がめぐり逢ったのが、早稲田大学のキャンパスでも、洋泉社の社屋でも、ゴールデン街バーでも、高田馬場のセーラー服パブでもなく、twitterというのに特別な意味を持たせるような趣味は持ち合わせていないが、この佐々木敦の一連の『トラウマ映画館』の批評tweetには関心がある。ただ、この核心を突いた批評があまりにも核心を突いているゆえに、その内容には触れない。
さて、『カルト・ムービーズ こだわりの映画読本』(93年 洋泉社)の「「光」以後をめぐって エピローグに」で佐々木は蓮實重彦責任編集の『リュミエール』に触れ、当時の(そして、それは今現在もなお健在な)映画にまつわる言説についてこう語っている。

今日、多少なりとも自覚的に「映画批評」を行おうとする者なら、肯定的にであれ、否定的であれ、「リュミエール」が切り開いた地平を避けて通るわけにはいくまい。同誌が無期限の休刊に入ってから4年の歳月が経過した現在、あたかもそれが存在しなかったように振舞っている「映画」をめぐる言葉は、結局のところごくナイーブで個人的な「感想」の類いか、書き手がどんなつもりでいるにせよ、社会的な機能としてパブリシティ制度に属する「紹介」でしかない
(同書 231P)

まさに佐々木が『トラウマ映画館』に感じたものが「感想」や「紹介」を超えた「映画批評」だったことは間違いようのないのだが、ただのその批評が「リュミエール」が切り開いた地平のどのあたりを疾走しているかは考える必要があろう。
このあたりのことは、ウェイン町山としての『映画欠席裁判2』(04年 洋泉社)のやりとり

ウェイン もしかして…『映画秘宝』こそ、実は蓮實重彦の正統な後継者だったのかも……。
ガース それは問題発言だ(笑)
ウェイン おれは『リュミエール』なんか一冊も買わなかったけれど、『映芸』の蓮實重彦は好きだよ。『エロ将軍と二十一人の愛妾』(72年)とかホメてた頃は。
(同書 253P)

が参考になるかもしれないし、ならないかもしれない。ただ「一冊も買わなかった」からと言って読んでなかったかどうかまでは分りかねる。ただ、彼が蓮實の影響下にあった事を示す証拠はいくつもある。例えば、この『トラウマ映画館』その他で旧作を観る機会はいくつもあり、それがその年のベスト10級の作品であると感じてもそれをランクインさせないのは

なお再上映のキートンはベストから、チャップリンはワーストから除外してあります。これを入れてしまうと、パリで見てきた十何回目かのフォードやウォルシュやホークスを入れねばならないかもしれないからです
(「1974ベスト&ワースト」『映画はいかにして死ぬか』261P)

に捧げたオマージュであり、今なお語り草になったパイ投げ事件は

東宝」と呼ばれる独立プロに関しても、やはりなんらかの物理的制裁が加えられてしかるべきと確信しておりますが、反対が多ければ、これを孤独に実行に移すにとどめます
(同上)

にインスパイアされたものであるのことは、誰の目にもあきらかであろう。
いわゆる「宝島的サブカル」の絶頂期から退潮期に至るまでのあの湿った明朗の厚みを、主にみうらじゅん根本敬といった才能のある表現者の才能のある編集者としてくぐり抜けてきた町山智浩は、その部分だけは妙な熱気をとどめていないるわれわれの雑誌的記憶の壁に「別冊宝島」の編集者のひとりとして分け入ってきた名前なのだが、やがて「映画宝島」シリーズの第二作『怪獣学・入門!』の編集者としても記憶されることになになったこの名前が、その後宝島が体験した度重なる路線変更としたたかに折り合いをつけず、ぽつりぽつりと消えていったいくつもの名前のひとつとはならずにいまも生き残り『映画秘宝』シリーズ〔95年〜〕の成功にもかかわらず妙な一流意識に囚われず、また社運をかけた雑誌の編集長などを担わずにいられたことはまことに喜ばしい現実というべきで、決して稀なことではない失望を何度も味わいながらまた呪われた傑作と言う著作を書いてその名前が神話的流通ぶりを示しているわけでもないのに、人がこの名前をいまだに信じ続けているのは、多分彼が無類の名著を作ったりしないと確信しているからだろう。
名著ということだけなら、彼は『映画の見方がわかる本』という途方もない名著を何年も前にすでに書き上げてしまっており、この映画批評史に残る二冊の本を今後の町山が越えられないことは当の本人がよく知っているだろうし、またこれだけのものを作ってしまったからには、もはやその才能を映画批評のために浪費する気がないのも当然だろうから、映画批評に似て映画批評にならざる何かをせっせと捏造していくほかあるまいと思ってた時に、いきなり飛び出したのが『トラウマ映画館』である。
『トラウマ映画館』が実現するディスクールの生なましい脈動ぶりを触知するには、ほんの三つか四つの文章について語るだけで充分だろう。あらすじ紹介は多少とも政治的背景を持った無名映画に深入りする著者が、その映画の真意を見抜いてこれを語り倒すというものだからとりたててどういうことではない。(以前)宣伝部の実力者と映画評論家の癒着ぶりを語ったこともあるが、これとて目新しい視点ではない読むものが心から驚くのは、そうした無名映画が言語化されてゆくときの造形作業である。放映された映画が閉じ込められた要因へと著者の町山智浩がひとりで踏み込む場面の素晴らしさ、目標の正解の小部屋に達するまでに、町山がどんな調べをしているかを思いうかべようとしただけで改めて興奮せずにいらぬほどこの作業の言語化構造は充実しきっている。
つまり『アメリカ"最強"のロック』で小野島大が批評眼を持った表現者スマッシング・パンプキンズのビリー・コーエンを語る

激しい表現衝動をギリギリのところでコントロールして吐き出す力量。感情と衝動を理性がコントロールする。あるいは知性の壁が激情が破壊する。新世代のミュージシャンの理想的なあり方

を映画批評で体現しようとしているのが『トラウマ映画館』なのである。




トラウマ映画館

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