「ジョカへ」から始まるイイ話

SF(Sex Fantasy)としての「ジョカへ」

※ここでいうsexとは「性別」って意味、たぶん。


今日、先日古本屋で拾った―ひょこっと意外な安値で買えた『SFファンタジア 漫画編』をぺらぺらとめくっていた。高校生の時に買って、どっかに行ってしまって(たぶん大学の時に亡くしたか、誰かに上げたか)ひさしぶりに読んでみたんだけど、当然妙に記憶にこびりついているところと全く覚えてないところがあったわけで。高千穂遥「'70年代から'80年代に至るSF漫画」で吾妻ひでおの「やけくそ天使」に触れた

「スター・ウォーズ」を見もせずにパロディにした

ってのはおそろしく印象が強かったようで昨日読んだもののように覚えていた。
ところが荒俣宏「身辺ファンタジーの綻びから」の、特に大島弓子「ジョカ」にかんして書かれた部分にはホント初めて読む気分で読んだ。いや、もしかしたら当時この部分は飛ばしてたのかもしれない。それほど大島弓子と僕には接点がなかったんだろう。
主にSF少女マンガを扱うこの章で荒俣は、なんと「ジョカ」を一つのセクションをあてて、「アンドロギュノス」と少女マンガを論じているのであるが、おどろくことに、萩尾望都「11人いる!」の方を「他にも」「いくつかある」作品扱いしているのである(萩尾望都は『ポーの一族』をフィーチャーしてるからだけど)。アレッと思って米澤嘉博『戦後SFマンガ史』を引っ張り出してきて確認してみると、やはり「11人がいる!」はその年の主作品に挙げられているが「ジョカ」の方は無いし、文中で言及されてもいない。でも『少女マンガ史』の「ジョカ」に触れたところを読むと、「ファンタジー」ということばを使ってこの作品を語っているのでるんで、この作品をSFとして語るのは間違いではないと思う。いや、おそるべし荒俣宏

荒俣宏といえば

エロマンガ・スタディーズ』に若き日の永山薫がブレイクする前に荒俣宏を訪ね、「萩尾、竹宮好き」を「それは少女漫画好きではなく、ただのマンガ好き」とたしなめられるエピソードがあるのだが、その後はこう続く。

もちろん漫画好きという点では三流劇画の描き手たちも、編集たちも負けてはいない。例えば中島史雄は、アパート住まいの頃、上階の女性がゴミ出しの日に捨てる少女漫画雑誌を拾って愛読していたそうである。ある日、その女性が中島の部屋を訪れ、「よろしかったらどうぞ」と少女漫画雑誌の束を渡したという

今回これを読み返して、当然として『村崎百郎の本』の採録された「<汚物童子村崎百郎の勝手に清掃局>隣の美女が出すゴミ」の

このおねーちゃんは、もういい年なんだけど、恋人がいないのか単純にスケベなのか、いつも過激なレディースコミックを定期的に大量に捨てるんで、大助かりだ。アレは男が読んでも良いズリネタになる

にぴったり符合していることに気づいて驚いた。因果は巡るのである。前者の女性が大島と同じ"24年組"の山岸凉子だった点、村崎がマンガ原作を主にシフトしていく点も含めて「イイ話」であると思う。




ところで「ジョカへ」に話を戻すと、その物語で「アンドロギュノス」の役を担っているのはシオン=ソランジュ(至上の天使)である。ソランジュが自らの「性」を語ることば

今ぼくは 男であり
同時に女である この世の客
ソランジュ

は、まさに村崎が「ペヨトルに来た年」に発行された『夜想21 天使』「美しき天使=少年」の

少女をモデルに、
画家は少年を描いた。
美の理想状態、
ヒト=天使として。

の画家の一人が、まさに大島弓子であったということになる。


すべては因果で繋がっている。

戦後SFマンガ史 (ちくま文庫)

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戦後少女マンガ史 (ちくま文庫)

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エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門

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村崎百郎の本

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