ハルキ、口をつぐむ

岩上氏の「角川家の一族」で僕が読み飛ばしていて、実はすげー大事なところだったと気付いたの部分はここ。

しかし、この映画には自殺を暗示する場面はあっても、死を選ばなければならなかった妹の内面までは描かれない。わずかに篠崎が美帆に、次のように打ち明けるだけである。

「自殺だったんだよ
妹……ふたりきりの兄妹だった
何んにもしてやれなかった
”すいません”てたった一言だった」

 しかし、この場面になったとたん、音声が突然消え、台詞は字幕スーパーで語られるのだ。それは監督の春樹自身が口ごもってしまっているかのようにみえる。春樹は先の対談でも妹の自殺には「父に責任があった」と強い口調で言いたてるが、その責任とは何かとなると急に言いよどむ。彼を口ごもらせてしまう何らかの重い禁忌(タブー)がそこに働いているらしい。
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/kado3.htm


カドカワフィルムストーリー愛情物語』152、153頁

ここでの「監督の春樹自身が口ごもってしまっている」というのに説得力が感じられるのは、シナリオ段階では(普通に)会話のシーンとなっているからだ。

97 山間の吊り橋
渓谷に掛った吊り橋を、小さな人影がふたつ、渡って行く・・・美帆と拓次である。
拓次、美帆の肩を庇うように抱いて、行く。
拓次「自殺だったんだ…」
美帆「え?」
拓次「妹…ふたりきりの兄妹だったんだ・・・」
美帆「・・・」
拓次「自分のことばかり考えていて、かまってやれなかった…"すいません"って、たったひと言だった……」
『シナリオ愛情物語』101頁


おそらく撮影時には普通に会話も録音されていたのだろう。でも「肉声」をフィルムに焼き付けるのは躊躇ったんじゃないのだろうか。ものすごいジレンマだったんだと思う。自分の分身である渡瀬恒彦演じる篠崎拓次の口からこの台詞を実際に語らせるのはつらい。でも、この台詞をカットするわけにはいけない、と。

それにしても、である。ハルキってやっぱ本当にイカレているな、と思う。この自身の人生のキモというべきエピソードを映画化するのなら、何も赤川次郎にドタバタミステリーの「原作」を書かせたり、アメリカから本場のダンサーを大勢つれてきてミュージカルシーンを金かけて撮影するなんて「必要」は全くない。ローバジェットの「しんみり」した小品なシャシンを撮った方が良かったのかもしれない。吊り橋が出てきたから言うわけではないが、例えば西川美和あたりが拓次と美帆のその部分だけを撮ったら、世間の人はハンカチ二枚くらい余計に持参するような作品になったような気がする。例え、ミュージカルを監督したかった(日本の「フラッシュダンス」が作りたかった)って衝動があったとしても、別の機会にってなるだろう・・・常人なら。
僕が80年代のハルキってすごいなって思う最大の点は、打ち上げ花火な作品の横で低予算で作品をしあげる才能(相米慎二崔洋一井筒和幸など)を引っ張ってきて、評価を受けながらしっかり興収もあげるってとこだ。が、同時に自分の監督作になるとそのタガがあっさり外れるところである。この辺がハルキのハルキたる所以である。昨日読んだ『東京で会おう』の美樹なら「ショイ?」って返すところである。