「少女」と「ブリティッシュロック」の希薄な関係

病院の待ち時間が1時間もあったんで立ち寄った、ブックエコ福間店がまた例のSET販売をやり始めてた。マンガは5冊50円だの18冊100円だのの大盤振る舞いであった。
そんで、

下弦の月 (1) (りぼんマスコットコミックス (1114))

下弦の月 (1) (りぼんマスコットコミックス (1114))

下弦の月 (2) (りぼんマスコットコミックス (1143))

下弦の月 (2) (りぼんマスコットコミックス (1143))

下弦の月 (3) (りぼんマスコットコミックス (1173))

下弦の月 (3) (りぼんマスコットコミックス (1173))

3冊50円ってのが目に入る。あ、最も美しい栗山千明が映し出された映画の原作じゃん。50円ならいいや、とすかさず手にとって、レジに向かう。


まあ、矢沢あいが3冊50円のはずはなく(といってもあの店『009ノ1』ソノラマ文庫5巻が105円だったりするんで)、"500円ならいりません"とは言えなくてお買い上げ。


そんで一気に(待合室で1.5巻読んだ)よんだんだけど。
矢沢あいってロックへの深い思いいれはないんだね。少女漫画に出てくるロックバンド伊藤剛「「男性のための<試験に出る>やおい講座第1回70年代編」*1なんかで勘違いしてたんだけど、そりゃ90年代末まで少女マンガ家がロック-それも大英帝国のロックに深い愛情をそそがなきゃならんわけではないわな、という至極あったりまえなことがやっと分かる。
だから、映画版『下弦の月』が意味もなく『さらば青春の光』をふぃーちゃーしたり、映画版『NANA』が映画秘宝で「それパンクじゃなくてヴィジュアル系だろ」ってつっこまれてたりすんのは、映画関係者の罪ばかりではなかったわけなんだね。
例えばアダムの設定がよーわからん、のである。70年代末にアルバム1枚残して死んだ英国ミュージシャンってどんな音だしてたのかってーと、NWOBHMでもなければPOST PUNK/NEW WAVE(うーん例えばジョイ・ディヴィジョンとかバニーメンとかオンリーワンズとかかな?)なんだろうけど、おっそくそんなディテールは関係なく望月美月(そのころ17,8歳)が生まれるちょっと前くらいの意味しかないに違いない。んで、画面から流れてくる(作者と読者の脳内で流れてる)のはその辺のニッポンのバンドの音なんだろうな、と思う。
でも、である。作者がそんなマイナーディテール(特にロックの)に拘泥してもろくなことがないことは『マンガ地獄変』の吉田豪の文章を読めば分かるんで、マンガ家としての矢沢は正しいんだと思う。
だって人の思いが交錯するジュブナイルなミステリーとして面白かったんだもん。蛍ちゃんや美月の妹唯の顔がときおり漫棚さんがいうところの「桂正和」ヒロインの一歩手前な感じだったりして、それはそれで興味深かったし。


たーだ、映画化する際にアダムを仮に日本人にするにしたって、チンチクリンってのはぁ。吉井和哉じゃだめならガクトで良かったじゃん。それに美月って栗山千明ってーより北川景子とかあのへんだよね。

しょせんその程度のディープラブ

この話はイマドキのジョシコーセイ美月の魂が、日本人女性さやかを愛したまま夭逝した唐毛人音楽者アダムの魂と感応しあい、そのために(その契機として自動車事故は起るとしても)美月の霊魂が肉体から離れ、ある屋敷の一室に留まったことから始まる。そして、偶然であった読者代表の小学生蛍ちゃんとその仲間たち(少女が主役の少年探偵団)がその魂を救済しようと奮闘する物語である。
美月のアダムへの思いは一見ひたむきでいかにも「純愛」なのだが、三巻の終わりに作者矢沢あいはきれいに紡いできた縦横の糸で織った敷布を一気にどひゃーっとひっくり返す。読み様によってはアダムのそれは"ほんのちょっかい"に過ぎず、美月のそれは"ほんの一時の気の迷い"に過ぎなかったように思える。ただ矢沢あいはその瞬間の愛の深さが例え「まやかし」かもしれないとしても、まやかしを暴くだけでなく、それを力強く肯定する(まやかしでもいいじゃない、心の底からだったら!)ことで読者をちょっぴり成長させてくれる。


やっぱり美月は北川景子の方が良かった

Dear Friends ディア フレンズ [DVD]

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のような気がする。
栗山千明だったら、そんなアダムをもう一回生き返らせて再び自らの手で虐殺しなくちゃいかんやろ。


※作者の真意は小中高一貫校に通うちょっとハイソ、でも水商売や役者なんていうとても華族制度が健在ならば爵位は持ってない実は平民な小学生に向けて、あんなバカ女になるんじゃないよ、ではないはずだと思う。

*1:

マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

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