1989年の夏休みのちょっと後つづき
『別冊宝島100 映画の見方が変わる本』9月10日発行 JICC出版局
黒沢清がフーバーを擁護する
『変わる本』の執筆者にはさまざまな人が起用されていて、その中ではやっぱり青山正明と黒沢清にぎょっとする。青山正明の担当がパゾリーニとフェリーニというのは彼の今のパブリックイメージ(そんなもんがあるなら)に合ってるのやら、はずれてるのやら・・・
でもって黒沢担当のトビー・フーパーについては「室内ホラーの傑作『スウィート・ホーム』の監督が「フーバーはもうダメ」の世評に、怒りもあらわに反論する」というサブタイトル自体が今改めて読むと「?」な感じがするが、この本が出た当時は28年後に
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で、何でかというと、eigahiho.com第4回「映画秘宝の歴史」で確認してもらえばいいんだけど、とにかくバブル時期日本の「映画を語る」状況ってのがどうもすかしていて
人はヴェンダースの現代性について語ることができる。『ラストエンペラー』の古典性についてもだ。ロメールの古典性は現代的だ。なんていったりする。しかし、ある種の作家たちは、現代にも古典にも分類されないがゆえに、ついに一度の語られたことがない。
(略)
ことが怪奇映画というジャンルの担い手についてとなると、人はいきなり冷酷になる。そいつは何より下品である。我々は別に言葉を奪われたんじゃない。そういう下品な輩に語られる資格などない。まあ、みんながトビー・フーパーを語らない言い訳はさしづめそんなところだろう
なんて文章が非常に切実だった。
で、また「ホラー」にまつわる状況も今と違っていて、「アメリカン・ニュー・ホラーの父」フーパーに対して
『悪魔の沼』の薄明にも、『死霊伝説』の静寂にも、『ファンハウス』の明快な恐怖にも、多くの人々は『悪魔のいけにえ』的猛々しさがないと言い放
たれていて、黒沢は「ホラーと猛々しさとは何の関係もないってことがどうしてわからないんだろうね」と嘆くしかなったのだ。
で、その後この文章はフーパーがホラーである所以を「凶器によるに肉体の串刺し」にもとめ、これを「ホラーの掟」と規定して、
それは死がゆっくりと確実にやってくることである。我々は死の瞬間の事故としてでなく、ある時間的幅のある変貌のドラマとして見る
と述べて、死をあっさりと銃弾で片付けるクローネンバーグと区別する。
そして、
この(『悪魔のいけにえ』)1から2に至る十年余のフーバーのいばらの道を、人は後退と裏切りの軌跡と呼んではばからない。「どんどんダメになってゆくフーバー」「結局『悪魔のいけにえ』一作だけだったね
なんて語る輩に
『スペースバンパイア』を観て泣かなかった奴らにフーバーを語る資格はないけどねっ!
と断罪する。ううっ、ここで人はマチルダ・メイと葉月里緒奈と比較する誘惑に負けてはいけない。
でもって、そのあとの「フーバー映画の見方」がこれまたすばらしい。前述の「猛々しさ」を求めるのも間違いであるとともに「博識な映画評論家」が「細部に語る絶好の符牒が転がってはしまいかと目を凝らすのも」馬鹿げたことと否定して、フーバーの映画の「空気感」を感じ取れというのだ。で、その説明が
"空気感"とはまた心もとない言葉だが、それは空気とか大気が、愛と正義と同様に、画面のどこにも映らないからだ。ただ、唯一空気的と言える表現は、運動する物体、たとえば車なんかがほとんど動かぬ遠景の山や雲の前に配置された場合、つまりロードムービーにおいてのみ可能だとされてきた。この時、画面の質を決定する最も大切な要素は天候だ
と、蓮実重彦門下生節炸裂である。(もちょっとつづく)