天使について

僕らは天使を混同している。ただ、それは無理もないことなのだ。

日本では「天使」といへば、古は「天子の使」即ち「勅使」の別語であった。『正法眼蔵』に曰く「天子また食を再送して師を尋見するに・・・云々。近代に至っては、西洋基督教のエンジェルの訳語として用ひるが、希臘神話のエロス羅馬神話のキュービットをも有翼といふ共通点に眩まされてか「天使」と称する混用が認められる。
「本朝飛翔文芸略考、或は日本の天族」須永朝彦夜想21・天使』ペヨトル工房

ただ、このエンジェルとキューピッドに関してはどうも僕らの現代日本人誤解というわけではないようで、同書の今野國雄「堕ちた天使」によれば

イタリアではすでに4世紀半ばに暦のタイトルページの中に見られるこの裸の童子型の天使は恐らくギリシャ神話(ママ)に出てくるキューピッド、あのヴィーナスの子で恋愛の仲立ちをする裸の少年神のイメージを借用したものであろう。

となってるんでもともとがそういうもんなのであろう。
で、両方の文章が森永のあのマークの話になるんだけど、前者が「キューピッド」、後者が「エンジェル」と規定しているのは面白い。
でもって、この本をパラパラ読んでわかったんだけど、どーもキリスト教芸術においては天使の姿は「幼児」「童子」「童女」「少年」「少女」の姿(もしくはそのミックス)で現れていて、おっぱいが膨らんだ女性の姿というのはないようなのだ。
さーて困った。ふかきょん天使はほんとに天使なんだろうか。

天女と天使

ということでふかきょん『天使』見てきた。やっぱし天女とのミクスチャーであった。
みづほたちが図書館で図版を調べるなんてシーンがあるものの今回の造形への影響は希薄である。
でもって翼を羽ばたかせることなく浮いている(飛んでいるではなく)シーンではヒラヒラとしたあのリボン*1っぽいあれはまさに羽衣ではないか。
ただ、これが一概に羽衣伝説で説明がつくかというとそうでもない。というか映画ではこの天使だか天女だかがホントは何者なのかは全く語られてない(深い意味があるのかもしれないが僕には判らなかった)。これって新『妖怪大戦争』において戦争なんかちーーともおこってないのに宮迫が「妖怪大戦争やん」と言ってるのといっしょで、見えてる人が勝手に「天使」だと思ってるだけなんのよね。
ふかきょん「天使」は『下妻物語』よりシンプルな甘ロリなだけ。メチャクチャ可愛いからいいんだけどね。
でもって、映画自体の感想は明日へ。

*1:永作には天使は見えない