1980年12月9日

その日は散々な日だった。
そうあの人が死んだことを知らされた日だ。
ま、あんな殺され方したことも相当堪えたが、それよりもそのことを『600こちら情報部』で知ったことがより悲しかった。
基本的に僕はポールの方が好きだったので、学校を休んだYクンみたいなことはなかった*1が、やっぱりそのことを知るシテュエーションとしてはけっこうマヌケ感が漂った。
なんでよりによって淳子お姉さんの口からきかにゃならんの、と早く帰ってきたことを後悔した。

その後、大学時代の僕のの周辺には心ある者はジョンを選ぶ見たいな風潮があった。ポールはただの職業作曲家ということをこれっぽちも疑ってもいない人間が多くて肩身の狭い思いをしたこともあった。*2

もう一度考えてみよう。あれは、「ワーキングクラスのヒーロー」に祭り上げられちゃいたが「ミドルクラス」出身のひとが「超高級アパート」に住み、そのころ蠢いていたNYパンクとは接点を持たず、フュージョンスタジオミュージシャンを集めてアルバムを作った矢先の出来事だった。
その、セレブな場所の前で、トッド・ラングレン*3サリンジャーが心のよりどころのクズがあの人の生涯に終止符をうったのだった。
彼の熱狂的なファンが思ったと違う理由*4で彼には生きていて欲しかったと思う。そして、醜い姿をさらして欲しかった気がする。
やたらと、「これは僕」「これはポール」とせこいことばを繰り返す、『プレイボーイ・インタビュー』を読むとその気持ちがいっそう膨らむ。思いっきり晩節を汚して欲しかった。そうすれば僕はファンになってたような気がする。

「死んで聖者となるよりもアクティブに生きたい」本人の言だが、どうも思いっきり本人の意向はシカトされ、今も世界のどかで彼の曲を聖典として使用している輩がいる。
ジョンビリーバーたちはマーク・チャップマンに感謝するべきだ。

*1:そういえば、BCRからパットが追い出された時クラスで泣いていた女子。猪木がホーガンに病院送りにされた時授業にでなかったCさんとか僕らの時代の僕の周りにはその手のピュアがあふれていた

*2:その後QJレコードやくざの「ジョンはベスト一枚持ってれば済み。アルバムそろえるならポール」というのに深く頷いた

*3:そういえば、リブ・タイラーが実はラングレンの娘として育てられたというのもあったね

*4:龍馬もそうだ