Cの悲劇再燃

劇場では「Dの悲劇」がその悲しみの絶頂を迎えようとしている中、DVD発売を契機に「Cの悲劇」の寒風が再び吹いている。
雑誌であのキリシーがインタビューを受けたのがその発端らしい。
そして、風があそこを襲った。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/

テーマをセリフだけで語ってたらそれはそもそも映画なの?
だからさ(深く溜め息)言葉でしか語ってない、映像で語ってないものを「映画」って言えるの?

確かにそうです。お気持ちはお察しします。あの141分間の拷問の後では。ただ、僕はその方法はありだと思う。映画がイディオムやグラマーにしばられどうにも立ち行かなかった時、「禁じ手」を使って映画に新たな息吹を吹き込んだのが「ヌーヴェル・バーグ」だとか「ニュー・シネマ」*1であったのだから。そういう映画があってもいいと思う。ただし、そこには話が面白ければという絶対条件がつくのである。
そう、今回は違うのである。
「たった一つの命を捨てて、生まれ変わった不死身の体。鉄の悪魔を叩いて砕く。キャシャーンがやらねば誰がやる」*2キャシャーンが出てこない(一人自分を勝手にキャシャーンだと思い上がっている頭のこじれたヤツは出てくる*3が)中でだらだらと幼稚なお話し合いが続くからいけないのだ。
それだったら設定を中学校にでもして、クラス会で手を上げて
「先生戦争はいけないと思います」
とでもやればすんだことではないか。

そして、この悲劇がさらに罪深いのは

CASSHERN」はアクションシーンがテーマやドラマと融合していたある意味傑作なんだと思いますが(略)、「CASSHERN」に人を切れさせる何かがあるのだと思いますた。

という頭が不自由なくせに何か語りたがるヤツ*4の生息を助長していることである。
どこをどう見たら「アクションシーンがテーマやドラマと融合」してるんだ。申し訳程度に付け足した程度*5のもんだから思いっきり浮いてたやんか。例えばアンドロ軍団のシークエンス。あそこ、壊さないで逃げちゃえば済んでいたではないか。そのあとトボトボ歩いていただけのように。イセヤとカナメのじゃれあいはなんだ。準備不足で出来もしない殺陣*6を無理矢理挿入しただけだからカタルシスのかけらもないではないか。
「「CASSHERN」に人を切れさせる何かがあるのだと思います」だと、僕らが本気の憤りなんかとおっくに通り越してバカにしてんのが理解できないらしい。はああ。*7


Cの悲劇の闇はさらに深くなっているようだ。

ただし、Cの悲劇は(自称)アーティストの作品であるから、まだ傷は浅い。Dの悲劇はアルチザンであるべき人がアーティストを羨んでしまっただけに重症である。

☆な〜んて書いてるうちにあそこに先に書かれちゃいました。
いいや、どうせ明日『永遠のモータウン』と『モーター・サイクル・ダイアリーズ』観に行くもんね。

*1:北野武がカットの合間に「空」を挟むのを、日本の映画業界、批評家は嫌うか無視してたくせに。「北野ブルー」などと海外で持て囃されると何事もなかったように日本の映画に無自覚にその手法は取り入れた。

*2:キリシーああいうことほざくんだったら、CM間違ってます、宣伝部の意向です。僕は「セカチュー」みたいなトレーラー考えてましたと言え。それとも二人分の3600円返してくれか

*3:樋口可奈子!お前も母親だったら「こらテツヤ!なんばいいよっとか!キャシャーンやら勝手に名乗ってから」と言うのが役目というものだろう

*4:キレイでした!超好きです!といったのには「そう、僕はそう思えないだけど。君がそう思うんだから認める」と素直に引き下がる。どっかでいい年こいて「この作品は哲学に興味がある人の方が楽しめるのではないか」といった大脳機能が不全の書き込みがあったときには頭にくるのと同時に、この人が見たのと僕が見たのは別のプリントではないかと思ったほどだ。

*5:「とってつける」というのが現国の試験にでたらカッコウの模範解答になるに違いない。

*6:監督にその素養が無いことが一番の要因だが

*7:また、こういう愚か者は場をわきまえない。本が読めないのか。読んでも意味が理解出来ないのか。『映画欠席裁判2』にブレランごっこ禁止って書いてあるのに。流石あんなもんのいちいち意味を噛み砕こうとしたら頭が痛くなる戯言を聞き逃せるだけはある