ゴスロリと『下妻物語』

『下妻』でのモモコ*1のフィロソフィーというか形態を「ゴスロリ」と表現しているものがけっこう多い。そのことに公開当時から非常に疑問があった。作品中彼女の規範となっているのは「ロココ」なのであるから「ゴシック」というのは真っ向から対立しているのではないかとうすらうすら考えていた。
「ロリータ」であれば全部「ゴスロリ」という誤解や「ゴシック」の意味の消滅はなぜ起こったんだろう。
まあ、「ロリータ」と書けば済むものを「ゴスロリ」などとどっかのライターかブロガーが安易に使用したものがどひゃーっと広まる際に誰も疑問に思わなかったことがからこのような事態を招いてしまったんだろうけど。
このボケた頭の中だけで考えても何にもならんからちょっと調べてみた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ゴシック
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロココ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロリータ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ゴシック・アンド・ロリータ

甘ロリは、その名前の通り、甘い雰囲気のロリータファッションであり、映画「下妻物語」で使われた「BABY,THE STARS SHINE BRIGHT」などが代表的な例といえる。町中で見かける、白いドレスに白いヘッドドレス、白い日傘というファッションは大抵がこの甘ロリに分類される。

何だ。調べればわかることじゃん。今頃調べている僕もどうかと思うし、wikiが絶対ではないけれども、何でもかんでも「ゴスロリ」って呼ぶよりはいいと思う。
それしても「甘ロリ」ねえ。で、ググって見てかなり浸透している言葉なんだというのは解った。
でもってそういう商品も出てるんだ。
http://www.naturalhigh.co.jp/naturalhigh/work/rori/dvd/rori.html
なのになのにn何であの誤用はなくならないんだぁ?不思議だ。
でもって「ロコロリ」って言葉使われてないのか。
同じ疑問持ってらっしゃる方はいるみたいだ。
http://moyatto.org/~n/diary/?date=200402

*1:今、この女性名では『パッチギ』の桃子の安否が心配にもなる。

学者の行儀作法

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=246
一時期「宮台はエンコーなんかは自傷行為だから良いと言ってるがそれでいいのか」という批判に「良いに決まってる」と胸を張っていた宮台真司自己批判めいたことを述べている。

事件後の95年6月、オウムに惹かれる若者を論じた「終わりなき日常を生きろ」を出しました。主題は成熟社会の「つまらなさ」です。でも当時の僕は、問題の深刻さを見通せていませんでした。

このこと自体が僕は潔いことだと思う。
このことについて実際に心身ともに傷ついて女性たちに対して「責任をとれ」という声もネットのあちこちから聞こえてくるが、ここで自分の認識不足を真摯に受け止めていることが学者としてかなりしんどいことだと思う。
あそこまで「オウム」に関して「責任」がありながら、のうのう「愛・地球博」なぞにのうのうと顔を連ねているな中沢新一なんかと比べるのは宮台さんに失礼だと思うが、やはり自分の誤りを検証し、新たなレシピを模索している姿勢を低レベルの「責任論」*1で貶めるのはそれほど有意義なこととは思えない。
だからこそ宮台さんには新たな「レシピ作り」を責任を持ってやってもらいたいと思う。その処方箋が有効かどうかなんてはその後の実のある議論を待てばいいと思う。

退屈ゆえにハルマゲドン幻想を持ち出して不安を消費する──それがオウムでした。事件が教えたのは、そんなな生き方は危険で滑稽だ、ということだったはずです

だったらどういう身の処し方があるのかを言ってほしい。
ひとまずこれを読めばいいのか?宮台真司interviews




*1:誤解するやつはいるだろうが、一応言っておくと宮台さんに「責任がない」とは思ってない。また、その女性たちの「自己責任」"だけ"を問うのもおかしいと思う。何らかの「時代的」「社会的」「地域的」な病因はあるはずだから。

疲れた

ガラにもなくちょっと脳味噌を使ったのでビデオに録っておいた『あずみ』をみながら頭使わないですむ本をよもうっと。
実録「仁義なき戦い」・戦場の主役たち―これは映画ではない! (洋泉社MOOK)
戦国合戦・本当はこうだった―逆転の日本史 (洋泉社MOOK)

こういうのを頑張っているという

のっけから「刺客集団」の選別手段にうん?。なぜ強いと思われる者同士戦わせるのって、なんか非効率というか組織運営上間違ってないか。単に冒頭に見せ場が作りたかっただけのご都合なのか*1。その後の悪党の狼藉のに対する正義感を抱いてるシーンに「じい」は今までどんな育成哲学を持って彼らを訓練してきたんだという疑問が湧いてくる。あのくらいのこと言われるまでもなくスルーしなきゃ刺客としてやっていけないだろうって。「なぜ言わなかったんだ」に至っては、そのくらい気付かんやつが首領で大丈夫かと思ってしまった。まあ残った面々が弱そうなのは時代のニーズってことなんでしょうね。もし山口百恵の時代にこんな企画があったら残りは如何にも野蛮で屈強そうな面子になってたと思うと、僕ってやっぱり年寄りなんだなあと思ってしまった。
でもでも、キモであるアクションシーンはけっこういいじゃない。上戸彩頑張ってると思うよ、いやホント。やはりこのくらい演ってくれて「頑張ってる」と言っていいのだとつくづく思う。彩に比べりゃ『新選組!』で局内一の剣客沖田総司のくせにヘロヘロだった藤原竜也とか『C』伊勢谷と要のバトルのヒョロヒョロぶりには何やとんじゃいである。あ、それに『D』の双子も*2もだ。
うーん。告知を見るかぎりでは見得の切り方に進歩の後が見えるようだし。
あれだけ、もう映画は控えるとか言ってるんのに『あずみ2』行っちゃいそうだなあ。
http://www.azumi2.jp/film/index.html
栗山千明がでてるからじゃねぞ。

*1:まあ続編への伏線といいたいのだろうが。

*2:時節柄控えるべきなどというやつは阿保だ。

参考になりません

http://www.kyo-sin.net/reframe.htm
そもそも「書きかえたい言葉」は「書きたい言葉」でしょう。なんか本来の言葉があって「こう書きかえたいんだけど」諸事情により「こう書き換えた」ということではないだろうからさ。
この程度の注意力と言語能力の人間が作った表を参考にしなければいけないというのがもう寒いちゃ寒いのだが、通知表に「書きたいこと*1」も書けないことのほう問題の根が深いんではないかと思う。
いい加減人間は少なからず欠点があるもので、その欠点を含めてその人間を評価するべきだと思う。欠点ばかりを指摘するとその子は萎んじゃうんでいけないんだろうけどさあ。
とにかく、教員のみなさんがこんなクソみたいなことで気苦労しているのってのは間違ってると思うぞ。

*1:それがその本人にとってプラスとなるならば書いた方がいいと思うが、何か今の教育現場の現状だと自分の好き嫌いだけで判断するヤツも出てきそうなんで、そういう場合は書き換えた方がいいかも。