ダブル主演の悲劇

これまたひきつづき映画『Wの悲劇』について

おどろくことに

これだけは知っておきたい名作ミステリー100

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の索引で『Wの悲劇』と『Yの悲劇』は並んでいる・・・って50音順の前に英数字があるからだけなんだけど。

そんでもって『Wの悲劇』の巻末にはエラリー・クイーンの「解説」が載っていて、そこでクイーンはこの小説が戯曲化に適していて、それがアガサ・クリスティに匹敵しているとまで言っている。
そこまで言われてる作品の映画化の際に原作の内容は劇中の舞台に限定してオリジナルストーリーを展開させることにはなった。その思惑が「劇場中継以上のもんにはなんない=舞台より良いもんがつくれそーにない」なのか、「薬師丸ひろ子(当時の)では持たん」だったのかはわからないけど(当時のハルキの燃える商魂であったら、とっとと実際の舞台公演でっち上げ製作するくらいのことは出来たはずなのに、しなかったのはやっぱり後者の方なんじゃねーのという気がする)。
じゃあ、良くある東映の原作無視―例えばどうしても中心になれない女性の悲哀を描いた『極道の女たち』を女組長のバイオレンス活劇にしたり、「バスケットボール選手が客席乗務員をやってる」ってな『翔べ!ラビッツ』を全く逆にしたりーなんてことはしてなくて、原作にある要素をうまく掬い上げている。
それは「処女<きむすめ>」(これは薬師丸の持つきむすめイメージを逆手にとってる」だったり、「記者会見」であったりするんだけど、その最大の要素が「Women」二人による「偽装」である。その「スキャンダル」の当事者とかばう者(自らの意思と押し付けられての大きな違いはある)がこの話の中心になる。劇団「海」の公演ポスターが淑枝と摩子のアップの写真であることがものがってるように。そんでもってこの舞台の主演は淑恵役の羽鳥翔である。それに呼応するかのように三田佳子が移ってるシーンでは三田佳子が「この映画の主演」に収まっていて、「三田静」なんて役名の薬師丸は三田の分身(もしくは駆け出し時代の自分)に過ぎないようなきになってくる。
実際パンフで名匠マキノ雅裕が舞台での「薬師丸ひろ子のアップがない」ことに苦言を呈しているのだが、あくまで映画のメインスタッフは舞台上の三田静香を駆け出しとして捉えている証拠である。おそらく澤井信一郎に言わせりゃ「わざとやってんだよ」(口が裂けても言わないだろうけど)なんだと思う。

でも、主役のはずの薬師丸は面白いはずはないよね。見かけ上はそうなんだけど、実際は羽鳥翔(三田佳子)の駆け出し時代を演じてるってのは。セリフでは「私は女優よ」と言わされながらも、いや、言わされてるからこそのこの扱い。『キャバレー』のカメオ出演を最後に薬師丸が角川映画を去るきっかけとなったかはわからんけど。


このことから思うのは、この映画を作った人たちはこのひとたちよりはずっと頭使って映画作ってたんだなぁということと、薬師丸ひろ子原田知世*1が今のいつまでもカワイイチンタラが許されている上戸彩あたりをどー見ているかだね。
ホントオスカーは『沙耶のいる透視図』のころを思い出せ。