恐怖映画は「復活」したか?

僕がMOOKを好きな理由、全部読まなくていいから。僕はメンドクサがりで根気がないんで。で、ぽつぽつ『カルト・ムービーズ―こだわりの映画読本 (キーワード事典)』。
で、篠崎誠「「70年代恐怖映画」は復活するか」。プレ映画秘宝洋泉社の映画の本と映画宝島→映画秘宝をつなぐミッシングリンクみたいな文章。ひとまず『映画の見方が変わる本』における黒澤清監督の文と繋がってる。

ドレミファ娘の血は騒ぐ [DVD]

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それは眠りに落ちたが最後、そのまま二度と眼が醒めぬのではないかという甘美なる恐怖ではなく、ある時、ふと目覚めると同時に、今日もまた何の根拠もない一日が始まるのだと思い至った時の不安に似ているのかもしれない

で、始まるこの文は、ドン・シーゲル監督の『ボディ・スナッチャー/恐怖の街 [DVD]』とイーストウッド初監督作『恐怖のメロディ [DVD]』を発端に「眠り」をキーワードに「終わりのない恐怖」を映し出す映画を語っていく。
ヒッチコックやロメロの映画に目配せしながら

悪魔のいけにえ スペシャル・エディション(2枚組) [DVD]

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を語りだしたときに、この文章の最初のクライマックスを迎える。

ドン・シーゲルが描いたのが眠りに落ちていくことの恐怖であるとするなら、トビー・フーパーが描くのは悪夢から醒めた後、さらなる悪夢が果てしなく持続していく不安である。

その後『エルム街の悪夢』第1作を、「シーゲルが、フーバーが描いた終わりなき不安と恐怖を、80年代に復活させようとした」と一旦褒めた後で、その後のシリーズは「不安と恐怖を置き去りにし」たとする。フレディやジェイソンというキャラの一人立ちが「真の恐怖」は費えたと。
その後篠崎の関心は『ゆりかごを揺らす手』や『ケープ・フィアー』に移っていくのだが・・・
ここでふと気になったのが、
2007-08-27 - 真魚八重子 アヌトパンナ・アニルッダ

『キャリー』が無意識に残した悪影響が、ここにも姿を現していると思いながら観ていたのですが、『キャリー』はまだ一人の少女による狂気の怒りであるから、彼女が怒り冷めやらずワッと驚かしで出てきても、まだ意味としては通るんですよ。でも、吸血鬼やJホラーにおける<連鎖>の症状は、災いの根源が絶たれたらそこで終わらないと、エンドカットでまた幽霊が出てきたとたん「本編90分観て貰いましたが、呪いは解消できてませんでした」という、それまでのひたすら無為だった行為を突きつけられた感じがするので、ほんとに考えて欲しい。最後にそういったカットを安易に持ってきた映画人全員に、その意義を問いただしたい。(強調僕)

この「終わらない恐怖」というのがかなり誤解されたまま垂れ流されている現状。

・・・今、この文章終われそーにないんでひとまず《つづく》てこって。