子供殺し

んなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。
世のフェミニストヒューマニストには、鬼畜のように罵倒されるだろう。
刑法に反するといわれるかもしれない。
そんなこと承知で打ち明けるが、私は子人を殺している。
家の隣のビルの下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、
そこに放り投げるのである。
私の住んでいるあたりは、人家が密集している。
バブル崩壊後の空地や空きビルが広がり、そこでは野良猫、野良犬、
野鼠などの死骸がころころしている。
子人の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。
自然に還るだけだ。
子人殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。

私は娘を三人飼っている。
みんな雌だ。
雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。
残る三人は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。
当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。
東京では野良人はわんさかいる。
これは犬も同様だが、血統書付きの人ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊を、まず考えた。
しかし、どうも決心がつかない。
獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。
その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
その娘は幸せさ、うちの娘には愛情をもって接している。
猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。
だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。
生きるための手段だ。

もし娘が意見を求められば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
娘に避妊手術を施すことは、保護者の責任だといわれている。
しかし、それは保護者の都合でもある。
子供が野良人となると、人間の生活環境を害する。
だから社会的責任として、育てられない人は、最初から生まないように避妊したり堕胎する。
私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの幼児を殺しても同じことだ。
子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。
避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。
そして、この差の間には、親にとっての「生」の経験の有無、子にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。
どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
愛玩動物として人を養うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。
人にとっての「生」とは、他人の干渉なく、自然の中で生きることだ。
生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。
人は神ではない。
他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。
どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。
生まれた子を殺す権利もない。
それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた娘の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。
もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。