『ホテル・ルワンダ』観てきました。

はっきりいってシネテリエはアホです。ネットでの評判見渡せば満杯になることぐらい想像できたでしょうに。一人あくせくしてる女性を余所に使えね〜男が二人がボさーっとしてました。
そもそも上映回数・時間帯が知恵足らず、みすみす客をのがしたいみたいですがな。まあこれで『ブロークバック・マウンテン』はシネ・リーブルに見に行こうと決めました。
しかし、劇場の想定外の(まあちょっと考えれば分るのに、各地で立ち見が出てるし、感想サイトでも概ね評判いいしね)観客数。まあこれがあっさり普通に公開してたらほとんどの人来てなかったでしょうね、という感じです。ミニシアターに来ない人たち、特におじさんたちトイレ探すのも戸惑ってました。ちょっと可愛かった。確かにあそこのトイレ分りづらいですからね。
とにもかくにもそんな人たちの目にも触れて本当に良かったと思います。マジ
で(水木)ユータさん、そして「ルワ会」の方々に感謝です。これをビジネスチャンスとしてこの映画をすくって*1くれたメディア・スーツ&インターフィルムに感謝です。でもって最初にふっかけて配給会をドンビキさせたライオンズ・ゲートに感謝です。
そして、日本で唯一映画評論家として『ホテル・ルワンダ』を推薦し、上映に向けて強力な協力をしてくれた町山智浩師父に感謝です。
映画の感想に余計なものは必要ないでしょう。自分が見たままを述べればいい。ただ、この映画は一度見捨てられた映画であり、それを多くの人に観てもらいたいという気持ちのこもった活動の末に全国順次上映が行われているという過程を知っておいても損はないと思います。
過程を歴史と言い換えてもいいでしょう。アメリカで僅か数館で始まったのが批評や口コミで最大約800館にまで拡大さてた小品を、アカデミー賞ノミネートによって箔がついてしまい、高額で日本で売りさばこうとして・・・てな歴史。ワッシュ番長のとこである低劣な輩のことをしりましたが、結局、今回のこのような歴史に関して自分で調べようとしない人間(ちょっと調べれば分るのにってのは昨日の『人類の月面着陸は無かったろう論』といっしょ)の歴史観なんて所詮そんなもんですんで、敢えて僕は何もいいません。

追記 もうやめましょう

このバカはどうしようもないバカなんです。「生れてないからしりません」なんて平気で書けるどうしようもないバカです。だったら『ホテル・ルワンダ』にしたって別にあんたそこにいたわけではないでしょう。なんで感動できるのということさえ頭をめぐらせることが出来ない可哀相な人なんです。
だからといってその人のブログにパニッシュしにいくのは、「ルワンダ虐殺」や「関東大震災朝鮮人虐殺」のやつらといっしょの行為です。町山の扇動にのってマチェーテを振りかざしてるって解釈することさえ可能です。多分あの程度の読解力では親身な意見と罵倒の区別もつかないことでしょうから、例えあなたが彼女のことを思っての好意でなしたことさえ森にミモレットになりかねません。
ほっときましょう。

[映画]たまらない子分肌の魅力『ホテル・ルワンダ

現在発売中の「映画秘宝」4月号・FBB「裁くの俺たちだ」によれば、そんな多難な町山師父の下に『ミュンヘン』を見て必要以上に残酷で辛気臭くて嫌な気分になりました」とこれまた頭のこじれた人のメールがきたそうだ。へー、だから面白いのに。
でもってこの人おそらく『ホテル・ルワンダ』でも「主人公がちっとも颯爽としてなく、ヒーロー然とした活躍をせずに気が滅入りました」とでもいうのだろうか。ね〜、だからこの映画素晴らしいのに。
この映画はドン・チードル演じる主人公ポール支配人が全然ヒーローじゃないから成立しているのである。
彼はあくまでも父であり、夫であり、ホテルの雇われ支配人であり、それを一歩も踏み出したりはしない。そして、そのどれもが完璧な父でも、完璧な夫でも、完璧な支配人でもない。
そんな彼は、危険を察した親戚から非難を促されても「商売敵のデマだ」と一蹴し自分の仕事にしがみつこうとした。最初の「事」が起きた時に行動を催促するつまに発した言葉が「何も出来ないよnothing what i can do」、虐殺が始まりひとまず彼にしたことは支配人の権限でもって家族にスイートを用意することだった。で、それから彼に出来たことは支配人として培った人脈と賄賂の技術を持ってして、ホテルの宿泊客の安全を守ること出しかなかった。
そりゃそうだろう、これが彼が「たった一つの命を捨てて、生まれ変わった不死身の体、鉄の悪魔を叩いて砕く」ような能力でも手に入れてでもすれば、「ポールがやらなきゃ誰がやる」となることだろうが、支配人ポールは生身の人間だ。「死体の山」を見ても桃太郎侍みたいに「許さん」怒りが手こみ上げたり、破れ傘刀舟みたいに「てめえら人間じゃね叩っ斬ってやる」となるわけではない。彼がまず行おうとしたことは支配人のとしての身嗜みを整えることだった。僕はこのシーンで久しぶりに笑いながら涙がこみ上げてきた。
やはり、監督のテリー・ジョージがいうようにこの役は「ドン・チードルでななきゃだめだった」と思う。そりゃシドニーポワチエが演じれば威厳をもってすべてのことに対処のできる、理性的な支配人が目の前にあらわれただろうし、サミュエル・L・ジャクソンだったら迫り来るフツ族の軍や民兵(字幕に従うが、この訳はどーなんだろう)に説教の一つもぶちかます爽快な支配人像が出来上がったかもしれない。
が、どっか子分肌のドン・チーゲルではそうならない。「私がお前のボスだI am your boss」ってな台詞の威厳のないことったらこの上ない。お前、もうちょっとしゃんとしろよと言いたくなるぐらいだし、*2容姿がまたスター然としてなくて、立ち姿もどっかしょぼい。フライヤーのあの「雨の中立ちすくむ」写真見て、この人が1000人からの命を救った人間とはどうして思えない。はっきり言って主役の柄ではないのだ。
でも、そこに監督の狙いがあり、僕らが最も受け止めなければいけない点があるのだと思う。そう、こんな特別でもなく「主役」じゃない人間にでもこんなドラマが生めるんだということを。そしてそういう現実がまぎれもなくあったんだということを。
ドン・チードルのカッコつけきらないカッコよい熱演がそのことをしっかり証明してる。ドンちゃん最高!
やはりこの映画は主役じゃない僕(ら)に必要なものだった、今改めてそう思う。

*1:救ってじゃないよ

*2:ネットで散見される実際のルセサバギナ氏は現在の立場の影響もあってか違った印象を受ける。