24年生まれの語り

「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)』と『戦後少女マンガ史 (ちくま文庫)』を読んでると、まあ当然「24年組」の話にいきつく。
大塚英志がそれが「トキワ荘」などに比べて「運動」と成立してないってことを書いているが、ちょっとまて「大泉サロン」を無視しちゃいかんやろ、と。
少女漫画と革命の時代 - BEAT-MANgus(椣平夢若食い散らかし記)でもイ引用した24年組のイデオローグ増山のりえのこのことば

大泉サロンって、実際は短かったんですよね。70〜72年の3年間だけ。あのころは安保闘争の時代で、私たちはみんながみんな運動に参加することはなかったなかったけれど、気分的な余波みたいなものを受けていたんです。でも、挫折感はないんですよ、だって、私たちはマンガで表現し続けられて戦い続けられたから、挫折を味あわずにすんだんです

ってのは、もろに「運動」のかおりがする。ただ、それがその後にその他のマンガの「運動」ほどは語られてこなかっただけなんではないか、と。


そんな思いで読み進めるとある一冊の本が気になった。

二十歳の原点 (新潮文庫)

二十歳の原点 (新潮文庫)

である。この本の「作者」高野悦子の生年が昭和24年だったからだ*1
『彼女たち〜』第2部・4「<私語り>の消費社会史」で60年代の「手記ブーム」の共通点を

日記の文体そのものの重層化である。それはほぼすなわち、
一、事実の記述
二、「あなた」への語りかけ
三、内省的な自意識の記述
四、詩

とし、挿入される詩を一見「不可解」なものとしながらも、「24年組」(およびそれ以降の)マンガにおける「詩の位相」と同質なものと読み取れること述べている。
これと

愛をください

愛をください

自殺直前日記 完全版 (QJブックス)

自殺直前日記 完全版 (QJブックス)

を比べてみると面白いのかもしれないが、まあそれは誰かがやってくれ。


てこって、実際今回読んでいるとほんといきなり現れる

おお見よ 白い雲はまた
忘れられた美しい歌の
かすかなメロディのように
青い空を かなたへ漂って行く!

なんてのには面食らった。ひとまずこの夏からの大島弓子岩館真理子拾い読みをやってなかったらうんざりしたかもしんない。でも、それ以上に僕を唸らせたのはその前(いやもっと前かも)の持ち主の引いた赤線である。
最初のライン

「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である

なんてのは書名にもなった「キメ」な部分なんでいいとして、そのあとが

臆病である自分が本当にいやだ
びくびくしていて、もっともらしく、やさしく丁寧にしている私
本当の私とは一体何なのか

とか

私は誰かのために生きてるわけではない。私自身のためにである

とか

とにかく一人の人間の存在が、ちっぽけなものであるということをいいたかったのだ。ちっぽけなものに大きさを与えようと必死にもがいているわけなのだが

なんてとこばっかしで、彼女が運動に「参加」した契機や、恋に悶々としてる様、そしてかなりの頻度で出てくる読んだ「本」の部分には全然線が引かれてなくって、まさに<私語り>ばっかりだった。この発売から2年とほぼ半年以降にこの本を買ったこの人の分の<私>までにもつき合わされている気分になって、いささか参ってしまったんで最後まで読めなかったよ。


ちなみに高野悦子さんが自らの命を断ったのが69年6月で「大泉サロン」以前、この本の発行が71年5月で真っただ中ってことに関しては、何かあるのかもしれないし、何も関係ないのかもしれない、とか思ってみる。

*1:一月生まれなんで萩尾・竹宮より学年は一つ上