30年前の若者たちってば

今こんな嘆き(もしくは説教)があるとしたら
「今の若いヤツはデートの約束だって、携帯メールですませてしまう。むかしの若者は勇気をふりしぼって直接電話したものだ」
いや、確かに女の子の自宅に電話するのにはちょっと勇気が要った。大学の友人が高校生と仲良くなって、そのコの自宅に電話をかけ、父親が出て「お前は誰だ?」との問に「名乗るほどのものではございません」と慌てて受話器を置く姿を目撃したこともある。それに比べて携帯が普及した今のヤツラの楽なこと、楽なこと・・・という話ではない。
先日「高原書店」で『怪奇映画の手帖』といっしょに購入した雑誌『宝島』76年7月号の特集「CITY BOYのための新しい-文章入門」にある

ぼくたちは、「デートの約束だって電話ですませてしまう。むかしの青年は心血をそそいで恋文を書いたものだが・・・」と大人をして嘆かせる世代なのだ

という文章に軽く衝撃を受けたもんで。この"ぼくたち"は現在40代後半〜50代で、おそらく今日この時「いまどきのわかもの」の文の乱れにギャーギャー言ってる世代である。まあ、『宝島』読んでたひとたちは「そんなこと僕らのころも言われたからねぇ」とある程度寛大な態度で臨んでそうな気もするが。てこって世代間抗争の話はこの辺で。
いやー、この特集の目玉の一つに星新一の「文体」の冒頭にも衝撃。

かって話題になったマクルーハンの文明論も、いまやあとかたもなく忘れられたかたちである。日本人が飽きっぽいと言うより、独創的な説を受け入れたがらないなかろうか。

そう、あの有名な「メディアはメッセージだ」である。PC、携帯電話とそのネットワーク機能で再び脚光をあびた、というより多くの人に「ああ、あの言葉の意味はこうだったのね」と納得を促したあれである。
でも、この号を読んでの最大の衝撃はそこではない。表3の広告が「リッチー・ブラックモアズ・レインボーの

虹を翔る覇者

虹を翔る覇者

だってことに比べれば、それらのことは古い雑誌を見たらよくあることだ。でも、僕の中の『宝島』や植草甚一と、桜田淳子と誕生日が同じで「リッチー・ブラックモア増毛」*1で有名だったあの男率いる「ハードロックバンド」がどうしても結びつかない。特集に岩谷宏「ロックの歌詞による文章入門」があったり、渋谷陽一がコラムで『太陽にほえろ』を貶して、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『プリズナーNO9』を持ち上げる文章を書いてたりするのとで、合わせ技百本とられた。
でも、それも「宝島主催のUSA76ヤング・サマーツァー」の日程に比べればなんてことないのかも。

今でも3週間ほったらかしのツアーってあんのか。

*1:当時シンコー・ミュージックから出版されていたギター教本「〜奏法」に引っ掛けた洒落。他には「ジミー・ペイジ商法」というのもあった。