すべからく現代人はこの本を読むべからざることなし

いやー何がいいたんんだろう↑。
まあ、昨今いろんな人の文(書籍・雑誌・ブログ)で「ゆとり(教育)」を非難してる「現場」に接することは多い。
まあ、「ゆとり教育」に誤りがあったことは認めるが、「ゆとり(教育)」を非難する言葉に違和感を覚えることは多い。誰かの「考え足らず」な意見に対して、脊髄反射的に「ゆとり」を持ち出す人を見てると、「考える訓練」が不足していることは「ゆとり教育」も「つめこみ教育」も大差ないような気がしてくる。ホントにそんな思考形態(多くの場合は短絡思考と思われる)は「ゆとり教育」の結果で生じたもので、それ以前の教育では生まれないものだったのか、というような疑いを全く持たないで発せられている場合(念のため、「ゆとり」をもって相手を批判する言葉を全て非難しているのではない)が多々見受けられるのだから。
まあそんなこんなで「考える訓練」が不足している「共通一次5教科7科目世代」*1の僕であるが、遅ればせながら

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

を手に取った。
著者の提唱する「ほどよい懐疑主義」とはものごとを鵜呑みにしない考え方を身につけること、って言えば簡単じゃんか思ってしまいそうなんだけど、それがなかなかムツカシイ。
まず、初手である「主張の内容を正確にとらえる」からし

主張の内容をとらえるのが大事なのは、字面の上では同じ結論に見えても、微妙な差でまったく結論になることがるあるからである
(同書・p36 強調は著者による)

なんてことから、僕には全くできてない。でもって、また根気がないのと、注意力散漫なもんだから、「量化」や「様相」ににあたる違いを読み込むトレーニングもそれを丁寧に選別する稽古をとばして、その先にある「ちょっとやりすぎ」なとこに興味がいったりするのだ。そこで著者は「ちょっとやりすぎ」とか言いながら、実はもっともっとやりすぎな構文を考えちゃったんじゃないか、というところに拘泥してグダグダになっているのだ。例えば「アラブ人というギミックを持ったアメリカ生まれのユダヤ系プロレスラーは、アメリカの政策に反対する意見を表面上しめすのだが、それはアラブ人である以前に民主党支持者だったりするから」なんてのを思いついて、本筋から離れて妙に悦に入ってしまったり。
そんなこったから全然先に進めない。
なんで、この本はぱっぱと読んで、読んだつもり、分かったつもりにならないためにゆっくり読もうと思う。

*1:その当時めちゃくちゃ非難された記憶があるので、今のゆとり教育非難の声に乗っかれない。