熱き思いのなき場所

ガラガラのスターレーンで涙ながらに「仲村一度俺の前で勝ってくれ」と叫んだバカ男と「セカチュー」の会場から出るや否やケータイで友達に「今みたあー。超感動したあー」に言ってたくせに、次の瞬間には外の事をしゃべりだしたクソ女。僕は限りなく前者に共感するが、「ブレイク」とは今、後者に認められることになってしまった。というか「ブーム」とか「大ヒット」とか「大人気」とか「ベストセラー」とは後者がさかっているところで存在する。良い悪いや好き嫌いの問題ではなく、そういうもんなのだ。
すべてガイドブックとタウン誌と情報番組の評判だけで頭をいっぱいにして(その程度の容量なので)何をするにしてもそれを確認するだけのヤツラ、彼らでこの国は回っている。
旅行はその記事にある写真といっしょの風景を確認するためにあり、本は*1は読む前に内容どころか感想さえもが用意されていて、本人は買うだけ。
映画もいやというほどキラーシーンは観てしまっている。彼らはトレーラー以上のものは求めない。「こら、TVやネットで見た予告編だけが見所じゃねえか」とか怒らない。それどころか、それ以上のものがあると困る。本末は完全に転倒しているような気がするが、それは僕の思い違いだ。現実ではとっくに本は「予告」や「レビュー」で「本編」は確認するためだけのものでしかない。
そういう確認作業で安心する人の、そこに「いた」という逆アリバイだけで流行とは作られる。
そこには体験がない。体感がない。感動もない。熱き思いがなど邪魔だ。

*1:『サラダ記念日』の時にこの感想をはじめて感じたが、いつだってこの国のベストセラーはそんなもんだったろう。